意味とか無意味とか

先日、宮城県某所の感覚ミュージアムというところに行ってきた。視覚だけでなく、聴覚や触覚、嗅覚と、五感をテーマとする展示が楽しめて、体験型現代アート展という感じで、とてもよかった。

印象に残っている展示はいくつもあるのだが、その中に「人力らくがきマシン」というものがあった。ペダルが付いているその「マシン」には人が乗れて、ペダルを漕ぐと少しずつ進むのだが、進むと同時にマシンについている「腕」が動き、「腕」の先に握られたチョークが、「マシン」の進むレールに沿って設置されている大きな黒板に自動で「らくがき」をしていく、というものだ。(イメージできましたか…?)

「らくがき」と言っても、犬とか花とか文字とか何か意味のあるものが描かれるわけではなく、黒板に残るのは色とりどりのいろいろな「線」である。いろんな人がマシンに乗ることにより、無数の線が黒板に描かれる。それらの集合体がアートに見えなくもない、というわけだ。

普通「マシン」というものは確固たる目的、意味を持って作られるものである。パンを作るマシンとか。人をマッサージするマシンとか。生活を便利にするためにあらゆる「マシン」は作られるはずだ。しかし「人力らくがきマシン」は、それ自体として目的や意味を持たない。マシンを動かした結果としてたくさんの線が描かれた黒板が生まれるけれども、その黒板が何かの役に立つわけでもないし、誰かを救ったりすることもないだろう。ただ「いろんな人が生み出した線がここにあるんだなあ」というぼんやりとした感慨を引き出すのみである。ものすごいデカいマシンなのに、どこからどう見ても「無意味」なのだ。すがすがしいほどに無意味。その無意味さが愛おしく、そして美しく思えた。

我々人間はとかく「意味」を求め「理由」を欲しがちである。なぜ勉強するんだとか。なぜ働くんだとか。そして、なぜ生きるんだ、とか。そんなことをいつも考えているうちに、意味を持たないものは存在価値がない、みたいな気分になってくる。でも、違うと思う。意味なんて、すべてのものに先天的に付いてくるものではなく、人間が自分に都合のいいように後からこじつけるものなのだ。意味がなくたって、存在していていいし、存在そのものに価値がある。ただそこにある、ということが心地いい。そういう考え方が、すごくあたたかくやさしいものとして、いいなあと思う。

日々意味に寄りかかって生きる我々にとって、無意味なものの存在は救いであり、癒しであると思う。ミュージアムの中の小さなレストランでカレーを食べながら、ぼーっと「人力らくがきマシン」を眺めつつ、そんなことをぼんやり思っていた。