長所と短所

この間とある授業で、自分の長所と短所を思いつくだけ(書く欄は7つずつ用意してあったが)書いてみよう、というワークをやった。私は長所4つ、短所3つ書いたところで筆が止まってしまったので、諦めてなんとなく周りの様子を伺ってみると(覗き見とも言う)、いろんな人がいてとてもおもしろい。長所も短所も全然埋まってない人、長所はたくさん書いてあるが短所を全然書いてない人、長所も短所も両方たくさん書いてる人、などなど。

私はどちらかと言えば、正直なところ、長所の方がスラスラ出てくる人だ。白状すれば、数年前まではマジで、自分の短所を言えと言われるたびに返答に苦しんでいた。お恥ずかしい。

決して自分が短所のないスバラシイ人間だと思っているわけではない。これは決して。なのにこれだけ短所が言葉にできないのはなぜなのだろう。

多分それは、「自分が真実だと信じていることしか言葉にしたくないから」なのだと思う。言霊、なんていう言葉があるが、言葉にしてしまうとそれがある種の真実になってしまう、ということは少なからずあるのだ。「私、あの子のこと嫌いかも」とか。その言葉を心に留めている段階では、あくまで「嫌い“かも”」なのに、口に出した瞬間から「嫌い(かも)」になってしまう。ちなみに逆も然りである。

自分の短所はあくまで「かも」で留めておきたいのだ。他人に自分から声をかけて親しく接するのが苦手「かも」。自分が信じたことに盲目的になりがち「かも」。責任がかからない場面での自己管理が苦手「かも」。なお本音を言うと「かも」でもまだ強すぎる気がする。「という場合もある」くらいがほんとはいい。「苦手」って言い回しも、逃げ道を確保するためのものだ。「苦手」なのであって、「出来ない」わけではない。頑張ればできる。能力が無いわけではない。

逆に言えば、長所は自分がそれに当てはまると「信じている」事項なのだ。信じているから言葉にできる。そして信じているからこそ、それを否定しづらい。自分の長所が「責任感があるところ」だと一度口にしてしまうと、きっと自分は責任感のある人間なのだと信じ続けてしまう、もしも途中で本当はそうでない部分もあると薄々気づいたとしても。そしてある日、自己評価と本当の自分の姿とのものすごい差に直面して、鬱になったりするのである。

この問題の対処法としては、定期的に他人に自分を評価してもらうことが考えられるだろう。自分は気づいておらず他人は気づいている自分の姿というものがあるものである。ジョハリの窓だ。倫理で勉強した(2回目)。

ただしこの方法が使えるのは、「他人に自分を評価してもらう」というバカ高いハードルを超えられる度胸およびそれを引き受けてくれる非常に近しい他人がいる場合に限られるのだ。しかも「定期的に」。それってかなーり難しいと思う。今の自分には無理さを感じる。

じゃあどうすればいいんだろう。度胸を鍛え、非常に近しい他人を作るように努力する、という正攻法がひとつ。

もしくは、自己評価と自分の本性とのある程度のズレは仕方がないと思って、生活の中でチラチラと見える恐ろしい自分の本性にいちいちショックを受けて、その度に評価を修正していけばいいんじゃないか。つまりそれが「自分に厳しく」ってことなのかもしれない。

うーん、どちらにせよしんどいなあ。ぶくぶく。