近況

案の定このブログも1年ほど放置してしまった。しかし改めて読み返してみるとなかなか面白いものだ。自分が書く文章を読み返すのは結構好きである。

去年の春休みはゆるゆると仕事しつつ、行きたいところに行って、たまに自問自答して、マイペースに過ごしていたんだなあ。それから1年、いろいろあったとも言えるし、特に何も変わってないとも言える。1年前よりも面白いブログを書けるようになった…自信は、これっぽっちもないなあ。

 

去年の6月ごろからずっと、所属している大学合唱団の定期演奏会運営準備に精を出してきた。その過程で思ったことは思い出しきれないほどあるが、とにもかくにもしんどいこともいつかは終わるもので、気づいたら本番を迎えていて、気づいたら役職の任期も終わっていた。

演奏会を終えて思うのは、「抱えているものが8割くらい減った」である。去年の6月からずっと、演奏会運営の何かしらかの心配事が24時間頭の片隅に居座り、追い出そうと思っても追い出せず、しかしなかなか片付ける気も起きず、「仕事しなきゃ」「仕事したくない」「私が仕事しなきゃ演奏会は回らない」「でも仕事したくない」という押し問答が常に繰り広げられていた。そりゃしんどいものであった。

 

このしんどさの由来がなんであったのかを今一度振り返ってみると、

〈仕事自体の性質によるもの〉

・そもそもイチ大学生がひとりでやる仕事量ではない

・善意だけでやる仕事にしては重すぎる

・話の規模がデカいゆえプレッシャーが重い

〈自分の性質によるもの〉

・仕事さばきの面でも精神的な面でも他人に頼るのが苦手

・一度悩みを抱えたら無限にそのことを考えてしまう

・下手に真面目(「こうせねばならないだろう」に支配されがち)

・下手に器量がいい、やればできてしまう(けどやりたくない)

といったところでしょうか。とにかく常に何かしらかの心配事に支配され続けた約半年であったと思う。

で、晴れて演奏会が終わり、次にやるべきはもはや「自分のこと」に限られてくる訳である。就職関係(私は教員志望なので免許取得に関する諸々も含む)、勉学、3月に留学に行くことになったのでその準備、などなど、やるべきことはそれなりにあるが、なんせすべて「自分のこと」である。それなりに大きい組織のために日々悩み苦しんでいた時期を思えば気楽も気楽である。失敗しても自分がなんとかすればいいだけの話だし。

 

そんなこんなで心がふっと軽くなった隙間に、超絶予想外因子が入り込んできた。合唱団の後輩くん(しかも役職の直属の後輩という設定)から、演奏会以降すごい頻度で遊びやらなんやらのお誘いをいただき、なんだなんだ???と思っているうちに、気づいた時には私も恋愛感情を持っており、次の瞬間には恋人同士になっていた。

しかも話はここで終わらず、彼とお付き合いしてみたら、生活のもろもろに関する感覚から恋愛観まで、まあぴったりくることが多すぎて、もはや頭がついていかず、こんな奇跡もあったもんかとただぼうっとするばかり。

私もほとんど恋愛経験を持ち合わせていないので憶測でしかものを言えないが、普通恋愛って(というか、それ以前に、人付き合いって)自分をどこまで出していいのかを相手の様子を見つつ、具合を測りながら、ちょうどいいラインを探していくもんだと思う。私も最初はそんな感じで「どこまで出していいんだろう」と探り探り進んでいっていた、はずだったのだが、なんせ彼もぐいぐい来るし、私の欲も引き出してくるし、出したら出したで彼が全部受け止めて返してくれるし、で、1か月と経たないうちに、本当に変な駆け引きとかなしに、自分のほとんどすべてを解放できる相手、になったと思う。これはほんとにすごい話で、もはや自分と彼の精神の境目が曖昧になってくるような感覚になりそうで、いやもうなっているかもしれず、依存してる、と言いたくはないが、なんだか自分の精神のうちのひとかけらは彼の中にあるような、そんな気もしてくる。つまり簡単に言えば「きっと彼も同じこと考えてるんだろうなあ」と自然と思えるような、そんな相手になった、ということです。

私はもともと昔からあまり友達も多くなく、あまり他人に頼らず過ごしてきたこともあり、基本的に「人と人とが分かり合うなんて有り得ない」と強く思って生きてきた。だからこそ、ここ1か月「こんなにぴったりくる人が世の中に現れることがあるのか」という驚きが尽きることがなく、マジで、神さまの悪戯かなあ、などと真面目な顔で思ったりしている。運命とかそのへんの話、結構好きなので。

 

まあどこまでも幸せなのはいいことなのだが、問題がなくもなく、つまりそれは前述した〈自分の性質〉(の前2つ)に対応しているのであるが、

・仕事さばきの面でも精神的な面でも他人に頼るのが苦手 →頼る人が見つかったらとことん頼ってしまう?

・一度悩みを抱えたら無限にそのことを考えてしまう →無論恋愛に関しても同じことが言える

というわけで、端的に言えば「あんまり溺れんなよ」ってことです。まあでも学生生活最後の1年だし、しっかり就職と卒業を決めて、あとは時間と体力の許す限り楽しんでもバチは当たらないんじゃないかなあと、思いたい、ですけどね。

 

そんなこんなで、近況でございました。うーん、やっぱりこの1年いろいろあったか。あったな。

今後自分も、自分を取り巻く環境も、感情も、良い方に変化し続けていくといいな。変わることは恐れないけど、やっぱり自分は自分であり続けたくもあり、でもそれができるだけの下積みは今までしっかりやってきたと思うから、だから、とにかく日々を大切に過ごすことを、目指していきたいです。難しいんだけどね。難しいんだけど、でも、自分のことを大事に思ってくれる人がいるってだけで、全然違いますよね。有難いこと。

私が好きなAKB48チーム8の楽曲「挨拶から始めよう」に「誰かのことを好きになるということは 世界中を好きになること」という歌詞があって、この一節がなかなかに好きなのだが、真似っこしまえば「自分の生活を大事にすることが、つまり恋人を大事にすること」に、なったらいいなあ。と、いま思いました。「自分を愛せなきゃ他人も愛せない」と歌ったのは…桜高軽音部か(笑)

 

意味とか無意味とか

先日、宮城県某所の感覚ミュージアムというところに行ってきた。視覚だけでなく、聴覚や触覚、嗅覚と、五感をテーマとする展示が楽しめて、体験型現代アート展という感じで、とてもよかった。

印象に残っている展示はいくつもあるのだが、その中に「人力らくがきマシン」というものがあった。ペダルが付いているその「マシン」には人が乗れて、ペダルを漕ぐと少しずつ進むのだが、進むと同時にマシンについている「腕」が動き、「腕」の先に握られたチョークが、「マシン」の進むレールに沿って設置されている大きな黒板に自動で「らくがき」をしていく、というものだ。(イメージできましたか…?)

「らくがき」と言っても、犬とか花とか文字とか何か意味のあるものが描かれるわけではなく、黒板に残るのは色とりどりのいろいろな「線」である。いろんな人がマシンに乗ることにより、無数の線が黒板に描かれる。それらの集合体がアートに見えなくもない、というわけだ。

普通「マシン」というものは確固たる目的、意味を持って作られるものである。パンを作るマシンとか。人をマッサージするマシンとか。生活を便利にするためにあらゆる「マシン」は作られるはずだ。しかし「人力らくがきマシン」は、それ自体として目的や意味を持たない。マシンを動かした結果としてたくさんの線が描かれた黒板が生まれるけれども、その黒板が何かの役に立つわけでもないし、誰かを救ったりすることもないだろう。ただ「いろんな人が生み出した線がここにあるんだなあ」というぼんやりとした感慨を引き出すのみである。ものすごいデカいマシンなのに、どこからどう見ても「無意味」なのだ。すがすがしいほどに無意味。その無意味さが愛おしく、そして美しく思えた。

我々人間はとかく「意味」を求め「理由」を欲しがちである。なぜ勉強するんだとか。なぜ働くんだとか。そして、なぜ生きるんだ、とか。そんなことをいつも考えているうちに、意味を持たないものは存在価値がない、みたいな気分になってくる。でも、違うと思う。意味なんて、すべてのものに先天的に付いてくるものではなく、人間が自分に都合のいいように後からこじつけるものなのだ。意味がなくたって、存在していていいし、存在そのものに価値がある。ただそこにある、ということが心地いい。そういう考え方が、すごくあたたかくやさしいものとして、いいなあと思う。

日々意味に寄りかかって生きる我々にとって、無意味なものの存在は救いであり、癒しであると思う。ミュージアムの中の小さなレストランでカレーを食べながら、ぼーっと「人力らくがきマシン」を眺めつつ、そんなことをぼんやり思っていた。

オシャレ

世のオシャレ女子はすごいと思う。朝家を出る何分も前に起きて、お肌の調子を整え、適切な組み合わせの服を選んで着、ベースメイクからアイメイクまでしっかり時間をかけてやって、髪をこだわってセットして、その上で軽い朝食を摂ってから家を出るのだ。たぶん。想像だけど。いやはや絶対無理だ。私は家を出る15分前まで布団から出られない。ダメすぎる。

オシャレってなんなんだろう。お化粧って。世の女子は自らの外面がアイデンティティだったりするんだろうか。うーん、割と信憑性ある説な気がするなあ。

自分にはアイデンティティを預けられ得るほどの屈強な(笑)外面を作るまでの気力がない。そもそも作れる気がしないし。誰かにやらなきゃダメだよ、と言われればやるのかもしれないけど、そういうもんでもないだろうし。まあそういう運命だったのかなって思う。神様の采配。

服選びもすごく難しいと思う。だって「着たい服」と「似合う服」は違う(場合もある)じゃないですか。しかも「純粋にデザインがかわいい服」と「自分が着てかわいい服」も違う(場合が多い)じゃないですか。前者はかわいいのは服、後者はかわいいのは(その服を着た)自分なわけですよ。違う。全然違う。その上自分が思う「かわいい」と他人が(特に異性が?)思う「かわいい」もたぶん違う。もう恐ろしい。かわいい服なんて選べない。

と言いつつ、実は「純粋にデザインがかわいい服」が結構好きなので、厄介なのだ。かわいい服には惹かれるけど、その服を着た自分が外から見てどうなのか、はあまり考えたくない。もっと言えば、自分がかわいい服を着たいと思っている、ということを認めるのもすでにしんどい。結果、こじれこじれて結局いつもやる気のない服装をしてしまう。いやまあ単純に考えるのが面倒くさいってのも大いにあるけども。

せめて人並みの身なりにしないとなあ。人並みってなんだろ。とりあえず美容院に行かなきゃなあ、、、、めんどくさい、、、、行きたくない、、、、部屋で寝てたい、、、、振り出しに戻る。

長所と短所

この間とある授業で、自分の長所と短所を思いつくだけ(書く欄は7つずつ用意してあったが)書いてみよう、というワークをやった。私は長所4つ、短所3つ書いたところで筆が止まってしまったので、諦めてなんとなく周りの様子を伺ってみると(覗き見とも言う)、いろんな人がいてとてもおもしろい。長所も短所も全然埋まってない人、長所はたくさん書いてあるが短所を全然書いてない人、長所も短所も両方たくさん書いてる人、などなど。

私はどちらかと言えば、正直なところ、長所の方がスラスラ出てくる人だ。白状すれば、数年前まではマジで、自分の短所を言えと言われるたびに返答に苦しんでいた。お恥ずかしい。

決して自分が短所のないスバラシイ人間だと思っているわけではない。これは決して。なのにこれだけ短所が言葉にできないのはなぜなのだろう。

多分それは、「自分が真実だと信じていることしか言葉にしたくないから」なのだと思う。言霊、なんていう言葉があるが、言葉にしてしまうとそれがある種の真実になってしまう、ということは少なからずあるのだ。「私、あの子のこと嫌いかも」とか。その言葉を心に留めている段階では、あくまで「嫌い“かも”」なのに、口に出した瞬間から「嫌い(かも)」になってしまう。ちなみに逆も然りである。

自分の短所はあくまで「かも」で留めておきたいのだ。他人に自分から声をかけて親しく接するのが苦手「かも」。自分が信じたことに盲目的になりがち「かも」。責任がかからない場面での自己管理が苦手「かも」。なお本音を言うと「かも」でもまだ強すぎる気がする。「という場合もある」くらいがほんとはいい。「苦手」って言い回しも、逃げ道を確保するためのものだ。「苦手」なのであって、「出来ない」わけではない。頑張ればできる。能力が無いわけではない。

逆に言えば、長所は自分がそれに当てはまると「信じている」事項なのだ。信じているから言葉にできる。そして信じているからこそ、それを否定しづらい。自分の長所が「責任感があるところ」だと一度口にしてしまうと、きっと自分は責任感のある人間なのだと信じ続けてしまう、もしも途中で本当はそうでない部分もあると薄々気づいたとしても。そしてある日、自己評価と本当の自分の姿とのものすごい差に直面して、鬱になったりするのである。

この問題の対処法としては、定期的に他人に自分を評価してもらうことが考えられるだろう。自分は気づいておらず他人は気づいている自分の姿というものがあるものである。ジョハリの窓だ。倫理で勉強した(2回目)。

ただしこの方法が使えるのは、「他人に自分を評価してもらう」というバカ高いハードルを超えられる度胸およびそれを引き受けてくれる非常に近しい他人がいる場合に限られるのだ。しかも「定期的に」。それってかなーり難しいと思う。今の自分には無理さを感じる。

じゃあどうすればいいんだろう。度胸を鍛え、非常に近しい他人を作るように努力する、という正攻法がひとつ。

もしくは、自己評価と自分の本性とのある程度のズレは仕方がないと思って、生活の中でチラチラと見える恐ろしい自分の本性にいちいちショックを受けて、その度に評価を修正していけばいいんじゃないか。つまりそれが「自分に厳しく」ってことなのかもしれない。

うーん、どちらにせよしんどいなあ。ぶくぶく。

仕事について

小・中学生のころの自分を振り返ると、真面目すぎるほど真面目な生徒だったなと思う。具体的なエピソードはこっぱずかしいのであまり書きたくないが、例えば宿題でもない国語のワークを授業前に予習してきて先生に褒められたりしていた。今では考えられない。

中学2年のときに選挙で選ばれて生徒会の副会長になった。いわゆる真面目な優等生だったので、ある意味当然の流れである。挨拶運動とか、行事運営の手伝いとか、普通の中学校の生徒会がよくやるようなことを役員で協力してやっていた。中2の3月に震災が起こり、すぐに駅前で募金活動をしたりもした。

その頃から、「仕事するの好きかも」と思っていた。誰かのために働くと、確実にその人から感謝される。自分の存在が認められたように思う。仕事のために校内を忙しく歩き回っているとき、なんとなく自分がエライ存在に思えて嬉しかった。

高校時代はいろいろと特殊だったので飛ばすとして、1年の浪人生活を経て、大学生になった私はやっぱりなんだかんだいろんな場で忙しく働いている。なんだかんだ仕事をしてしまうのは「好きだから」なのだろうか。よくわからない。

仕事をするモチベーションとして「周りの人の役に立つことで認められたいから」ということがあるのだとしたら、それは極めて普通の欲望だ。マズローの欲求のピラミッドのアレだ。倫理で勉強した。

確かに中学生のころは「認められたい」と思って働いていた気もするが、今はそうでもない気がする。そもそも誰かに認められたいと思いながら生きてるんだろうか私は。まあ多少は思ってるんだろうけど、その承認欲求の上にいろんなものが降り積もった結果よくわかんなくなってる気がする。例えば責任感とか。自己愛とか。怠けたいと思う気持ちとか。

仕事をすることで他人に認められるかどうかという問題は置いといて、とりあえず自分自身で「自分はこの仕事が出来る程度には価値のある人間だ」って認識できるのが良いんだろうな、多分。自分の価値とかいうフワフワした概念を手近に実感できる手段なのだ。仕事とはつまりアイデンティティなのかもしれない。アイデンティティが仕事に寄っかかってる、とも言える。

社会人になったら膨大な仕事に殺されるのかもしれないが、とりあえず学生のご身分の今は、仕事に生かされてると思う。仕事がなければ毎日家から出られず今ごろ社会的に死んでいると思う。マジで。

ありがとう仕事。これからもほどほどに、よろしく。

ひとり

ひとりで行動することに躊躇いがない。誰かと行動するのが苦手、というわけではない(と思いたい)けれど、ひとりで行動する身軽さが好きなので、結局だいたいひとりで出かけてしまう。

ひとりの良いところは思いつきを即座に行動に移せることだと思う。たとえば友達と一緒に街ぶらをしているとき、ちょっと見てみたいかも、というお店が目に入った場合、友達に「あの店ちょっと入ってもいい?」と一声かけるのが普通だろう。その後「いいよ」となる場合が多いと思われるが、その一声かけるというワンステップがとても面倒くさいし躊躇われる。「いいよ」となった場合でも、自分のちょっとした興味のために友達の時間を拘束し、自分に付き合わせるということを申し訳なく思ってしまう。対してひとりでの街ぶらなら、いくらでも予定を変更して、思いつきのままに店を回ることが容易にできる。ひとりは気楽でいい。

世の中の人はよくもそんなにいつもいつも友達と一緒に行動するなあと思ってしまう。今日この店に来るまでに、予定を合わせ、待ち合わせの時間を決め、待ち合わせをし、何をしたいかの意思をお互いに確認し、意見をすりあわせ、道順を調べ…って行程をたどったの?マジで?私はついさっきふと思いついてGoogleマップでちょちょっと検索してふらっと来たのに?

「誰かと一緒にどこかへ行く」ということにかかる労力がひとりのときと段違いすぎるように思える。実際はどうなんだろう。わからない。そりゃ私だって多少の友達はいるし、一緒にどっか行くことはあるけど、やっぱりひとりで行動することが圧倒的に多いと思う。友達と行動することによる楽しさより、ひとりで行動する身軽さを取ってしまう。

とか言ってるからよくないんだろうなあ。わかる。わかります。別に人付き合いが嫌いな訳じゃないんです。誰か、ごはんとか、誘ってくれてもいいんですよ。

数学

現在某国立大学の理学部数学科に在籍している。理学部数学科なんて一般の人(まあここで言う「一般の人」が誰を指すのかは議論が必要だが)にとっては縁もゆかりも興味もない場所だろう。「何を勉強してるの?」とよく聞かれるが当然答えは「数学」である。(このおきまりのやり取りはコントみたいで好き)で、そのあとだいたい「大学の数学って何やるの?」と聞かれるのであるが、この質問に適切かつ簡潔に答えられるほど自分は優秀ではないし大学数学は簡単ではない。

私自身は大変な不真面目学生であり、頭もそれほどよくはないが、数学および数学科での学びはわりあい好きである。

数学の好きなところは、ひたすらに純粋であるところ。数学の前では性別も年齢も国籍も身分も、たぶん住んでいる星も、関係なく平等である。当然そうだろうという素朴な定義から始めて、当然そうだろうという議論を丁寧に積み上げていくうちに、気づいたら驚くべき結論に達している。純粋であるからこそ、「何のために」とか「何の役に立つの」とかいうクソみたいな質問から遠く離れた地でその尊さを噛みしめることができる。

数学科での学びの好きなところはというと、「分からないことを分からないと認めることが大切であるという空気」である。数学は、1点でも理解が曖昧なところがあると、そこから先の議論を積み上げていくことが難しい。どんなに些細なことでも、あれちょっとこれわかんないなと思ったら、いちいち定義に戻って証明を考えるのである。そして数学をする人はみな分からないことに対して謙虚だ。分からないことは分からないと堂々と認める。その空気が清々しくて好きである。 

数学科は理系なのに実験がないし、(他がどうなのか知らないけど)うちの大学に至っては卒論もない。授業のコマ数も少ない。それゆえどうも気が抜けて、つい(つい?)授業に行かなくなってしまったりする。大学生活も折り返し、せっかく好きだと思える場に身を置いているのだから、楽しいと思うレベルに達せられるように努力したい。来学期こそは。

あー、努力、その言葉、あんまり好きじゃないんだよなあ。